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法然院〜祇王寺

翌日、所要の前に早朝の法然院へ。法然院は銀閣寺のすぐそばにあります。

法然上人が弟子と共に六時礼讃行を勤めた草庵を探し出し、上人を偲んで知恩院の和尚とその弟子が念佛道場として伽藍を作り
江戸時代に再興させたもので、もともと浄土宗の寺院でしたが、現在は宗派の組織に属していない単立宗教法人となっています。

何かで画像を見た時に、どうしてもどうしても行きたくなって、今回のメインイベントでした。ひっそりと静かに佇んでいて、門構えがこんなにもさりげないのかと少し驚きました。

階段を上がって参道の奥に茅葺きの山門が見えてきます。この山門を見ただけで来れて良かったと思いました。

山門を入ると、両側に白い盛り砂が。
白砂壇(びゃくさだん)というのだそうです。

水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しています。誰もいなくて、この静かで美しい世界観をしばし堪能します。

季節によって描いてあるものが変わるのだそうで、この日は紅葉が描かれていて感動しました。

生憎の雨だったのですが、雨で本当に良かったと心から思いました。こんなにも雨が似合うお寺はあまりないのではないかと思いました。私、ここ、すごく好きです。

小さな橋を渡って本堂方面へ。方丈庭園も素晴らしいです。

法然上人は「浄土宗」の開祖。法然上人が比叡山を下りて念仏の教えを広め始めた1175年が、浄土宗の開宗年とされています。

法然上人が生きた時代は、相次ぐ戦や治安の乱れ、さらに天変地異などの異常気象で、人々の間には不安と絶望が蔓延していました。厳しい暮らしから抜け出るには、解脱して仏となれば極楽浄土に行けるという仏教の教えがありましたが、暮らしに追われる庶民には手の届かないものでした。

そのような背景の中で、念仏を唱えるだけで「身分に関係なく誰もが」極楽浄土に行って救われるとする法然上人の教えは、人々に衝撃とともに受け入れられ、また希望の光となったのですね。

法然上人でさえ、修行を積んでも真理を知りえた実感はなく、とうてい満足することはできない日々をお過ごしになられたのだそうです。教えを求める師もなく、納得のいく教えを得ることもできない上人の苦悶の旅は悟りをひらくまで延々と続いていたとか。

樹齢何年になるのでしょうか…。ねじねじがすごすぎます。

本堂が見えてきました。雨の音と、どこにあるかわからない鹿威しの音しかしない、透明で静かな時間が流れています。

本堂。非公開になっていて中は見れません。まさに究極の引き算の美学の世界。

本堂の手前で、誰かいる!となんか不思議なエネルギーを感じて恐る恐る見てみると

なんと大きなお地蔵さまが!

本堂正面の石段上にある、この尊像は、1687年、忍澂和尚46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものなのだそうです。私より大きいと思います。

よーく見ると瞳が水晶でできていました。この時代の尊像にはよく水晶が使われているようです。水晶って、PCなどにも使われていて「記憶を保存する」石なので、なにか関係があるのだと思いました。

蟹さんが歩いています。水がきれいなんですねえ。

本堂の軒下で鹿威しの音を聞きながら、ぼーっと無心で眺めていたら、急に「あ! そうか。」と思いました。

「阿弥陀仏」の語源はサンスクリット語の「アミターバ」と「アミターユス」に由来します。
「アミターバ」は「計り知れない光」「アミターユス」は「永遠の命」

かなり昔、どこかの有名な大学の宗教学者の方が書いた本に、「阿弥陀仏」を訳すと「無量光仏」「無量寿仏」となる。
しかし、お経の中では「アミダブツ」と音写して字をあてている。
漢訳して意味が分かる様にしたものと、そのものの言葉に宿る力を伝えるべく音写したものと、
お経は複雑に訳してある。

的なことが書いてあったことをなぜか急に思いだして、その時は意味が分からなかったのですが、

法然上人は「南無阿弥陀仏」という音(声)の力を繰り返し繰り返し使うことでエネルギーを変換していったのでは思いました。声の波動の力を何千回も繰り返すことによって、ランナーズハイのような脳内の状態を作りだすことができるのかもしれないと思います。(無の境地)

この時代の仏教は、どちらかというと「心の中で念ずる」系が多いのに対して、
法然上人だけは「南無阿弥陀仏という短い言葉だけ声に出して唱える」という教えです。

上人は「南無阿弥陀仏」という宇宙の共振共鳴した「音」を解析し、この音を使用した精神統一の仕方を、
修行できない庶民の方々に教え「心を鎮め無の境地をつくりだす」ことで、
修行せずとも、この方法なら、だれでも、いつでも、どこでも核につながることができる、ということがおっしゃりたかったのでは?と思いました。

本当の自分の核になる部分(魂)とつながることで、苦しい時代でも「恐れのない」揺らがない幸せを感じることができるよ、
その部分では人間はみな平等だよ、自分の中に答えをもっているんだよ。

という深い深い慈愛にみちた教えを広めたかったのではないか?と思ったのでした。

なんて優しい・・・。

そして、人生25年と言われていたこの時代に、法然上人は80歳、弟子の親鸞聖人はなんと90歳という生涯だったというのも非常に興味深いです。この時代のお弟子さんたちの平均寿命とか食生活、健康状態など詳細が知りたくなりました笑

なんだか、ずーーっとここに居たくて、細かなところまで散策していました。ここは「自分とつながる場所」なんだなあと感じます。

よく見ると、不思議なガラス?のような石のようなものがあります。

オブジェが面白いなあと思ってひとつひとつ見ていたら、突然「つながる」が登場して、ちょっと笑ってしまいました^^
答え合わせをしているみたいです。

「自己の限界への果てに己を知り真の自由を得ることは一流の証である
一流を極めた二流が一流を凌駕する
これこそが京大ギャングスターズの歴史である」

おー!^^

後で知ったのですが、故谷崎潤一郎氏はこの法然院が気に入ってこちらにお墓を建てたのだとか。谷崎氏は、人形町の出身で生粋の人形町っ子です。彼の生誕の地は現在谷崎というしゃぶしゃぶのお店になっています。(美味しい♡です)

そういえば人形町の雰囲気と京都の雰囲気ってちょっと似ている感じがあります。京都のお香やさんの支店や、元京都という本店も人形町に結構あったり、なにかご縁があるのかもしれません。

なにげなく石壇を見ていたら、置石がありました。

なんだろうと思って近づいてみたら、これはもしかして「立ち入り禁止」という意味ですよね。

文字にしてあえて表現しないこの美学。わあ♡と思いました。

そして、結局3時間近く貸し切りで滞在させていただいて、帰るときに一組の高齢な御夫妻とすれ違ったのですが、
「おはようございます」と言ったら、奥様がキラキラした目で「雨が本当にいいですねえ・・・」と仰って
「うんうんうんうんうん♡」と頷きながら清々しい気持ちで後にしました。この後に所要があったので名残惜しかったのですが、また本当にすぐに来たいなあと思いました。

 

翌日祇王寺へ。こちらの竹林と苔と青紅葉もすごく楽しみに来ました。

祇王寺(ぎおうじ)とは小さな尼寺です。

祇王寺は竹林と楓に囲まれた草庵で、平家物語にも登場します。
平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、
母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺なのだそうです。

入ってすぐにもう苔の世界が広がっていて、わーー♡となりました。

祇王寺は昔の往生院の境内にあって、往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたのだそうです。
ここにも法然上人関係者が・・・。
法然上人って、大変優れた審美眼の持ち主ですごいクリエイターでもあったのかもしれませんね。

小さな草庵があるだけのお寺なのですが、本当に素晴らしいです。人もまばらで、ゆっくり見ることができました。

そして、この竹林。さらさらときれいな音色を奏でています。ここには、水と緑の神様がいるのだと思います。

優雅に取捨選択をして、必要なものとそうでないものをはっきり区別して無駄をそぎ落としているような、そんな侘びさびの世界観を感じました。

この尼寺には、愛情あるエネルギーが注がれています。女性向けへの配慮なのか?そういうやわらかなものを調達するように指示されていたのかもしれません。

仏間にある仏壇には、本尊大日如来、祇王、祇女、母刀自、仏御前と平清盛の木像が安置されていました。※撮影禁止でした。

しかし、苔ってなんでこんなに心が落ち着くのでしょうね・・。

このあと二尊院へ。
 

 

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