サイマティクス メンタルケア 女性特有のお悩みについて

病院チャプレンという仕事

先日、メンタルケアの勉強のため「死生論」という講座を受けてきました。
その中で、福岡女学院看護大学副学長  斎藤 武先生の講座がとても心に響きました。

斎藤先生は米エモリー大学神学部博士課程修了後、
スタンフォード大学病院チャプレン、ミネソタ大学病院チャプレンおよびスーパーバイザーとしてご活躍され、
WHOやNGOといった国際的な医療の場で活躍する看護職者を育てるために海外と広いネットワークを持ち
緩和医療のリーダーとして日本最初のホスピス設立にかかわった第一人者です。

チャプレン【chaplain】とは 学校・病院・軍隊・刑務所などで働く聖職者(牧師さん)のことをいいます。

チャプレンとは、スピリチュアルケアの専門家です。
スピリチュアルケアとは「人間のスピリチュアリティを支えるもの」で、その人によって異なっています。
人間の生きる意味は何なのかというのがスピリチュアルで、家族関係や死生観、もちろん特定の宗教があればそれも含まれてきます。
病気による苦しみや、生きる上での苦しみに直面している人の心のケア、患者様だけでなく
そのご家族をも含めたサポートをするのが、チャプレンの仕事です。

病院チャプレンとは、余命が短いということがわかっている場合には、死の恐怖、死に至るまでどのようなプロセスを歩むのか、
患者様の苦痛に耳を傾け、その苦痛に寄り添う援助を行います。
特に、不安、恐怖、怒り、絶望感、孤独感、虚無感、疎外感などに囚われる患者様の内的世界に光をあてていきます。

終末期医療における霊的苦痛の緩和(スピリチュアルケア)の重要性はWHOでも認められています。

終末期の患者様から一番聞かれることは
「私は〇〇してしまった罪を背負っているから、この病気になったのではないか?
自分が死ぬのはもう仕方がないけれども、こんな私でも神様は許してくれるのだろうか?」
という質問が一番多いのだそうです。

また、家族が脳死になった場合など、非常に難しい質問を受けたり、
明日、両足切断などの手術を受けるという患者様に「どうしてこのような状態で生きていかなければならないのか?」
重篤な内臓の疾患で肝臓などの臓器が機能していない場合「ただ死ぬのを待ちながら生きることになんの意味があるのか?」
などの質問を受けることが多いのだそうです。

知的好奇心から生じるものではなく、人生の困難な状態にあって
葛藤や矛盾を感じた時、全ての虚栄を放棄した「魂」の叫びを受け止めるお仕事なのだとおっしゃっていました。

齋藤先生がこのような時、どんな言葉をかけていらっしゃるのか多くの受講者から質問があり、
「答えはない」「私にもわからない」
同じ病気でもその方によって全く違うから、というのが御答えでした。そして、
「その方自身が答えをご自身の内側にもっているのだ」ということをおっしゃっていました。

私自身が、セラピストとして重篤な疾患を抱えた方、ご家族など死別で深い悲しみを抱えた方に
どのように言葉をかけていいのかわからない時があり、このことで今もよく悩みます。

もしも、なにか言葉をかけられたとしても
「この病気になったこともないあなたに、何がわかるのか?」と
言われてしまったら答えようがない、と怖かったし、実際私にはわからないし、と緊張してしまったりします。
勉強をしたいと思ったのは、この理由からでした。

齋藤先生が一番大切なのは
「その方を、わかろう、わかろう、と言う気持ちしかない」とおっしゃっていたのが深く心に響きました。

アメリカの白血病で13歳で亡くなった男の子が、医師や看護師にあてた手紙があります。

「僕の元に、毎日いろんな先生や看護師さんが忙しそうに来ます。
なんだか僕を怖がってさけているのがわかります。
自信がないのは、わかります。
でも、もしも本当に僕のことを思いやってくれているのであれば僕にどんなことを言っても良いのです。
誰かが僕の手を握ってくれるのを待っているだけです。治してほしいと思っているわけではないのです。
僕は、死ぬことが初めての経験なのです。初めての経験だからわからないのです。
ただ、心から関われたらと、思っているだけなのです。」

世界で最初にホスピス(の原型)を設立したマザー・テレサが
「愛とはどれだけ多くのものを与えたかということではなく、そこにどれだけの思いやりが注がれたか、ということなのです。」
という言葉を残していますが、それが、斎藤先生がおっしゃる、「ただ、そのひとをわかろうとするだけ。」
ということかもしれない、と思いました。

人間とは何月何日の何時何分から「自分」になったのか、また何月何日の何時何分に「自分が終わるのか」
自分ではわからないもので、「生きている」のではなく「生かされている」のだと思います。
死ぬ、ということがあるから「生きている喜びがある」のかもしれません。
死ぬという経験は、誰でも初めてのことで、生きている私たちにわかるはずもないのです。

人は心底苦しい時、知識や正論など求めていないのだと思います。
ただ、話を聞いてくれて、寄り添ってくれる存在がいるかいないかでは全く違ってくるような気がしました。

講座の最後に、斎藤先生が小林麻央さんのことについて触れ、彼女の「病気は私の一部」だという言葉に対して
患者さんと「病気になったことが人生のすべてではない」とよく話します、とおっしゃっていました。
長さではなく、どう生きてきたのか、笑ったり泣いたり、失敗したり傷ついたり、感動したり何かを成し遂げたり、そういった経験のすべてが人生なのだと。
また本当に最期まで頑張って生き抜いたというような主旨のお話をしていて、会場が涙に包まれました。

麻央さんが生前BBCにこんな寄稿をしています。

人の死は、病気であるかにかかわらず、
いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??

私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。

私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、
愛する人に出会い、
2人の宝物を授かり、家族に愛され、
愛した、色どり豊かな人生だからです。

だから、
与えられた時間を、病気の色だけに
支配されることは、やめました。

なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。
だって、人生は一度きりだから。

 

個として存在する人間は誰でも「有限」。
生かされている「今」を大切に、どんなことがあっても生まれたからには、精一杯生きることが大切なのだと改めて感じました。
与えられた時間を麻央さんのように最期まで精一杯生きたいなあと思います。

麻央さんの御冥福を心からお祈り申し上げます。

 

-サイマティクス, メンタルケア, 女性特有のお悩みについて